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GeneralMotors ゼネラルモータース創立とウイリアム・C・デュラントの失脚
アメリカ自動車創世記において、T型フォ−ドを世に送り出した
FORDモーター創設者ヘンリー・フォードの名は誰もが知っていると思いますが

その当時、FORDをも圧倒する規模の自動車コングロマリットのGM GeneralMotors ゼネラルモータース 
を創設したウイリアム・C・デュラントの名を知る者は少ないでしょう。

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やがて、ビュイックに抜かれ業界2位の座にいたFORDが動き出します

1908年「大衆に自動車を広める」と言うコンセプトを掲げた約850ドルの新型車
T型フォードを10月に発売すると言う発表を
新聞やダイレクトメール等を使い大々的に宣伝をはじめました。
その当時のT型フォードと言う自動車の発表はとっても衝撃的なものでした
お金持ちの玩具でしかなかった自動車の価格を大衆向けに半分以下にしてしまったのです。
同クラスの自動車が1,000ドル台の価格帯であっただけに非常な好評で
(高級車だと当時3000ドル以上。)
安いだけでなく、それまでFORDが培ってきた高級車の技術を駆使した高性能な車でした。

それに加え、大々的な宣伝効果もあって
発売前にも大量注文殺到
(ちなみに1909年アメリカ陸軍が初めて購入したライト兄弟の飛行機の価格は25,000ドルOVER。)


それを受け、裏でコソコソ動いていたデュラントはついに動き出します
1908年
9月ビュイックを持ち株会社としてデトロイト周辺の
数々の自動車及び部品メーカー等を株式所有で傘下におさめた新会社を創立します。


前年に訪れたアメリカの不況を逆手に利用したデュラントは、不況で売上の落ちた数々の会社を

そのころ「業界1位のビュイック」と言う立場をフルに利用し、
ビュイック株式との交換や現金で買収しまくっていたのです。
デュラントは自動車が大衆に大きく広がる事を前提に着々と計画していたプランを進めていたのでした。

そしてT型フォード発売日の発売前に満を持して創立した企業連合こそがゼネラルモータースなのです。

T型フォード販売好調を尻目にデュラントはGM創立後も次々と強引な企業買収を繰り返し

(懲りずにまたまた現金でFORDを買収しようとしますが、またまた失敗…)
ゼネラルモータース1910年には4万台近くの年間生産台数を誇る
アメリカトップメーカーに急成長
するのでした。
(1910年のT型フォードの
販売台数は約18000台。個別の車種ではぶっちぎりのトップ!)
デュラントがビュイックの経営をはじめてから約6年しか経っていません。
ちなみにデュラントがビュイックの経営をはじめた1904年ごろのビュイックの生産台数は30台にもみたず、
1909年にはビュイック1社でも年間販売台数は8000台以上と言う驚異的な成長を成し遂げたのです。

んが、
急激な拡大成長が、かえって仇になってしまいます。

1910年、再びちょっとした不況がアメリカを襲い、それをきっかけに
ゼネラルモータースは従業員に給料が払えなくなる程の経営危機が訪れました。
1910年GMの売上高は前年比の倍以上の5000万ドルで売上利益率が20パーセント以上と言う
ハタから見れば超優良企業にもかかわらずにです。
このころGM傘下のビュイックやキャデラックの売上は好調でしたが、
デュラントは利益を生まずに逆にGMの足を引っ張る企業も多く買収していたためです

それに加え今まで企業を買収するために現金を借り受けたものもあり,その支払い金利も馬鹿にならぬほどでした。

国の経済成長が右肩上がりだったらそれでも問題無く企業運営できたのでしょうが、
要は大きな企業がフル稼働の拡大と自転車操業していたので、
少しでも成長が鈍れば運転資金が枯渇する状態だったのです。
(前年比の売上が2倍以上の市場じゃ無理も無いか?)
「攻めには滅法強いが攻めに集中するあまり守りはスッカラカン」な企業体質の
当時のGMの財務基盤はとても脆弱だったのです。
(巨大自動車会社自転車操業とはこれいかに…)
これって近年のベンチャーにも良く見られる現象だったりもするので
皆さんも起業の際には前もって
良い公認会計士さんや腕の立つ税理士さんとよくよく相談
のうえテイクオフしてくだされ。

相談すると思われる兄弟の図 写真:米国会図書館ライト兄弟アーカイブ

また、デュラントのいた頃のGMは他の企業を買収しても、中央である持ち株会社が株主になるだけで
買収した先の経営に関しては元いた経営者におまかせヌルイ経営体質で、
ろくに管理されておらず、グループ全体で守りに転ずる事すらままならず、
追い討ちをかける様にGMの株価も値下がりします。負債は増えるばかり…
銀行に更なる融資してもらうくらいしか手の打ち様がありませんでしたが
金策に奔走するデュラントに対し、どこの金融機関も金を貸しませんでした。

「万策は尽きたか…」そんなデュラントにひょんな事から凄い融資の話が舞い込みます。
20行を超える投資銀行団が結成され、条件付きでGMに000万ドル以上の運転資金を融資するというのです。
デュラントはその話を受けるしかありませんでした。受けなければGMは消滅するのです。
が、どの金融機関にも見放されたデュラントに資金を貸し付ける条件生易しいものではありませんでした。

「GM全資産を担保で元金償還は5年期限で年利は数パーセント」と、ココまでなら普通の融資でしたが

さらにM株の配当は全て金利に持ってかれ、貸付手数料200万ドル以上持ってかれ
加えてGMの優先株や普通株もごっそり持ってかれ
おまけに「役員刷新を求む」な有様!
(いやはや、デュラントの身から出た錆とは言えどハゲタカ
て怖いよな…)
そうです。これは投資銀行団によるGMの乗っ取りです。

そして銀行団の経営陣がごっそり乗り込んで来た役員刷新の折、
GMに末席を置く事を許されたGM大株主のデユラントでしたが、事実上何の権限も無く
彼はデトロイトを出て地元フリントに帰ります。
デュラントはその年5月に現れたハレー彗星になぞらえて
彗星の如く現われ消えて行った過去の人呼ばわれされました。
GM創立して、たった2年後の11月の事でした。



ちなみにこの年12月の日本では、さっそく飛行機初上陸と言う事でありまして、
東京の代々木錬兵場で兵隊さんが動力飛行機での日本初飛行しますが
、この話が傑作であります。

初飛行はオフィシャル上は12月19日、
将軍家の血筋を持つ徳川大尉(後に男爵)が初飛行した事になってますが、
事実上は12月14日、
滑走試験中に偶然60メートルも飛んじゃった日野 熊蔵大尉です。
(1903年12月17日のライトフライヤーの初回の飛行距離が30メートル強。)
しかし、陸軍はこの12月14日の出来事を「滑走訓練中だから公式記録にならない」却下
翌日に徳川大尉と
行試験を行ない、徳川が飛行に失敗したのに日野は普通に飛んじゃったが、
陸軍さんはまたまた却下!!
さらに翌日のフライトで日野が…でも却下!

と言う訳でライトフライヤー初飛行記念日を挟んで19日日野・徳川双方が成功した日
これが初めて「日本における動力機初飛行」として公式に認められた
のでした。
尚、徳川大尉のお知り合いにはこう言う偉業を成したこんなもいます。

実は本家ライトフライヤーの人類初飛行の偉業もライト兄弟が
中卒(高校中退)だった為か
アメリカの権威ある学者さん達に
「機械が飛ぶことは科学的に不可能」という旨の記事やらコメントやらで完全否定されて
事実上1941までは公に認められなかったりします。

んが、それにも負けずライト兄弟が1910年、製作し民間向けにも販売されたライトフライヤーBは、
前年リリースしたの陸軍モデル(25,000ドル)より200キロ増ながら
破格の5,000ドルと言う販売価格(今で言うクルーザー並か?)で販売されております。










ライトフライヤーBと思われる図(車輪付複座…)
写真:米国会図書館ライト兄弟アーカイブ



それはさておき
肝心のシボレーがまだ出てないのですが気になりますか?

 前へ 続く

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